真田信繁(真田幸村)ゆかりの地・史跡 大阪編
2016/08/15
真田信繁は豊臣秀吉に仕えてから大坂の陣まで、その半生を大阪で過ごします。
今回は大阪の真田信繁ゆかりの地をご紹介します。
・大阪城
豊臣家の本拠地。内外二重の堀に囲まれた強固な城塞都市でしたが、大坂冬の陣の講和により埋めることになり、裸同然となりました。
大坂夏の陣を描いた屏風(黒田屏風)などの重要文化財が保管されています。
屏風自体は特別展による期間限定での展示でしか観ることができませんが、天守閣の5階ではパノラマビジョンとミニチュア人形により大坂夏の陣屏風の世界を知ることができます。
老若男女問わず大阪の住民に対して略奪や暴行、にせ首狩りや奴隷狩りなどが横行したといわれており、この屏風にもその一面が描かれています。
歴史テレビ番組では「戦国のゲルニカ」というタイトルで紹介されたこともあります。
(所在地:大阪市中央区大阪城1-1 最寄駅・駐車場:ホームページ参照)
・真田山 三光神社
大坂冬の陣で真田信繁が築いた曲輪(くるわと読み、土塁などで造った砦のこと)を「真田丸」といい、この周辺一帯にあったとされています。
大坂城の南は守りが手薄なため徳川方はここを狙ってくると読んだ信繁は、一か月余りでここに曲輪を造りました。
大坂冬の陣ではここに鉄砲隊を配置し、攻めくる徳川方の軍勢を次々と撃退した真田軍は大勝しました。
「真田信繁の銅像」と大阪城まで地下道でつながっていたという伝説がある「真田の抜け穴」を見ることができます。
また、三光神社オリジナルグッズとして、真田家の家紋「六文銭」がデザインされた勝守りや絵馬が人気のようです。
(所在地:大阪市天王寺区玉造本町14-90 最寄駅・駐車場:ホームページ参照)
・茶臼山(天王寺公園内)
大坂冬の陣では徳川家康の本陣、翌年の大坂夏の陣では真田信繁の本陣が置かれたところです。
大坂夏の陣の時、信繁は豊臣方劣勢の中、この情勢を覆すには家康の首を狙うしかないとして、ここ茶臼山から出陣し家康の本陣まで攻め込みました。
徳川方の数々の隊を突破し本陣まで迫る怒涛の攻めに、家康は死を覚悟したともいわれています。
(所在地:大阪市天王寺区茶臼山町1-108天王寺公園内 最寄駅・駐車場:ホームページ参照)
・志紀長吉神社
真田信繁は徳川方へ深く攻め込んでいましたが、大坂城も苦戦しており豊臣秀頼から大坂城へ退却命令がありました。
退却の途中この神社にて戦勝を祈願し軍旗と刀剣を奉納しました。
刀剣は太平洋戦争後、GHQに没収されましたが、六文銭の軍旗はこの神社の社宝として保存されています。
わずかですが定期的に一般公開もされているようです。(ホームページ参照)
(所在地:大阪市平野区長吉長原2-8-23 最寄駅:地下鉄谷町線長原駅 駐車場:あり)
・安居神社
真田信繁の最後の地とされています。境内の一本松の下で休息していたところを松平忠直勢の鉄砲組、西尾仁左衛門に討ち取られました。
「真田信繁の銅像」と信繁が最期を迎えた場所として伝わる「さなだ松」があります。
銅像は休息している姿を現しているのでしょうか、三光神社のものとは異なる様子です。
(所在地:大阪府大阪市天王寺区逢阪1丁目3−24 天王寺公園内の茶臼山から徒歩5分なので、一緒に行かれるのがオススメです)
おわりに
真田信繁は徳川方の再三の寝返り要求にも応えず最後まで義を貫き、家康をあと一歩のところまで追い詰め、家康に「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と言わせました。
その軌跡をたどる大阪観光は、また一味違ったものになるかもしれませんね。
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